「クーラーの修理に来た人に、彼女がお茶を出したのを見た時、彼女と結婚しようと決めました」現代における、女性版「結婚の才能」である。つきあっていても、結婚を決めるにはなかなか至らなかったというのではない。

こういうことは、つきあってすぐの時期に起こることである。彼女の部屋にいる時に、彼女が業者の人に示した礼儀と思いやりが結婚の決め手になったという男性の話をすると、女性は大抵その彼女に怒りを覚えていろいろなことを言う。

「彼女一人だったら、お茶を出さないですよ」「男性って、なんて単純なんでしょう」「お茶も急須も茶托もない私はどうすればいいんですか」「私なら、食事まで出します」いずれにせよ「結婚の才能」というのはそういう具体的な挙措にあるというところが、女性の痛に障るのである。

世の中には、恋愛の才能はあるが、そういう結婚の才能はないという女性がいる。「内面的には、自分の方がその彼女よりずっと優しい」と思ってはいても、ホスピタリテイを分かりゃすく示さなければ男性には何も伝わらないということが、どこかで不愉快なのである。

そういう行為をしなければ結婚できないのなら、結婚しなくてもいいと思っている人も少なくないだろう。お茶を出すような人は、「結婚のプロ」なのだが、多くの女性は「結婚のアマ」で、間違った方向で自分磨きをしている。たとえば、経済力や学歴を身につけるとか。経済力があってしかもお茶を出す女性は別として、経済力があってお茶は出きない女性と、お茶は出しても経済力がない女性なら、男性はどちらを選ぶだろう。

「その彼女は他人にお茶を出す前に、彼にお茶以上のものを出しているじゃないですか。それは計画犯じゃないですか」と、怒った女性もいた。人間は屈辱的な場所に帰るぐらいなら、どんなこともする可塑性に富んだ生き物である。

それを計画犯というなら、ある集団の中で自分の上位にいる人に気に入られるために、その命令に従順に行動している人は全員計画犯ということになる。刑務所にいる模範囚も、そういう意味では計画的であるかもしれない。

いや、頭のいい囚人なら模範囲になるだろう。内心がどうであれ、表面に現れた行動が模範的であれば懲役期間が短くなることについて、人を行動で評価する以外に評価する方法はあるのかと刑務官は言うだろう。それに、模範囚は優遇されるという規則がなくなれば、刑務所から模範的な囚人は消えてしまった。

結婚相談所選び

男には、多かれ少なかれ、「自分の理想どおりに女性を育成したい」という気持ちがあります。

恋愛シュミレーションや、子育てシュミレーションなどのゲlムを男はほんかい好みますが、女性を理想どおりに育てていくのは、男の本懐なのかもしれません。

映画の『マイ・フェア・レディ』なども、基本的なテ1マは、女性を自分好みにしていくことにあるといえるでしょう。これが、男の夢なのです。谷崎潤一郎には、『痴人の愛』という小説があります。

主人公がナオミという美少女を見出し、育てあげるというお話ですが、こういう欲求は、男になら、だれにでもあるのです。父親が娘を育てるときに、同じような感情を抱くことがあります。

男というのは、結婚する女性としては、「処女」であることを強く求めます。なぜ処女がいいかというと、まだ真っ白で、自分の思い通りに育てることができると思うからです。

経験者があまり好まれないのは、ヘンなクセを、すでに別の男に仕込まれてしまっているのではないか、と不安だからです。

セックスに限らず、男は、自分が経験していないような経験を、いろいろと体験している女性は、避けようとします。それはなぜかというと、自分が育てていくという楽しみが奪われるように感じるからです。

男が、女性を食事に誘ったとき、もっともガツカリするのは、「ぁ、この庖だったら、私はよく来るよ」といわれることです。かりに女同士で来ているのだとしても、男はガツカリします。

「トルコ料理って初めてなんだ。どうやって注文すればいいか、教えてね」と言われてこそ、男は俄然張り切ってエスコートしようと思うでしょう。

男の中にある、「育てたい」という欲求が満足するのです。それでは、女性は、処女を保たなければならないかというと、そうではないのです。

男に求婚してほしいと思うなら、たとえ処女ではなくても何事につけて、未経験者、処女を装えばいいのです。これは、心理学のデIタでも確認されています。

カリフォルニア州立大学(UCLA)のパメラ・レーガン博士は、たくさんの男性をつかまえて、「あなたは、結婚相手の女性には、どれくらいセックス経験があるのがいいですか?」と聞いてみました。

すると、「まったくセックス経験のない処女」が一番人気で、つづいて「ほどほどの経験あり」でした。まったく人気がないのは「かなりのセックス経験あり」でした。

ところで、晩婚には、もう一つ問題があります。仕事のうえで、地盤が出来ていて、信用もついてきたときに、結婚で姓が変わることです。

あなたの姓、たとえばヤマダさんとかスズキさんとかは、あなたの信用のあかし、あなたのブランドでもあります。愛着もあるでしょう。

そこに、姓の悩みが生まれてきます。民法七五〇条では、こう規定しています。「夫婦は、結婚相談に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」”夫又は妻の氏を称する”ここが問題です。

それは、夫又は妻の氏を称さなければならない、ということです。つまり、この法律は、夫の氏であっても、妻の氏であってもいいから、夫婦は同じ氏であるべきだといっているわけです。夫婦同姓を命令しています。

しかしながら、現実には、妻の氏を名乗る男はきわめて少ないのです。世の中の常識として、男の氏を名乗るのが当たり前、妻の氏を名乗るのは”ご養子さんから98%の女が男の氏を名乗っています。

でも、仕事をしている女にとっては、ブーフンド名が変わるのは、決定的に不利です。別人だと思われてしまうことになるでしょう。オキフジノジ=で本を出している私が、突然サイトウノリコで出したら、別人の仕事と誤解されるでしょう。

だから最近は、通称として結婚前の名前で仕事をしている人も多くなりましたが、法律上は夫の名前になっている例が少なくありません。法律上の名と通称と、両方使い分けるなんて、本当に面倒なことです。

それもこれも、夫婦は同じ姓でなければならないとしている、民法七五〇条のせいなのです。妻が、姓を変えることによって、迷惑をこうむるならば、夫だって同じです。

かりに、妻の姓を名乗ったとしたら、旧姓でやっていた結婚相談は、別人のものかと思われてしまうかもしれません。

男が姓を変えることの偏見もあります。何歳から結婚相談に行くかはともかくとして、私が主張するような”修業を大切に”主義をとるとすると、当然この名字の問題が起こってきます。

修業し、世の中で仕事をすればするほど、自分の姓を変えたくないという女が増えてくるでしょう。

だから、女は賢くなる前に結婚したほうがいいなんて言う人がいたら、とんでもない時代錯誤です。今やもう、こんなことをいう時代ではありません。女が自立して生きていくことは、社会的要請です。

それならば、そこに付随して起こってくる`姓の問題も、当然改善されていくべきです。女の生き方と姓、それは、家制度や古い結婚観と姓の問題を問うことです。

最近動き出した結婚相談の選択制はなぜ生まれてきたのか、夫婦が同姓であるべきという法律によって生じた悲劇、今なお引きずっている家制度、男女観、結婚観、そういうものを考えてみましょう。

夫婦が別姓であるということはどういう意味があるのか、さらに”事実婚”として別姓を生きる人々はどう考えているのか、姓の問題はこれからの結婚を考えるうえで大きな問題です。では、次章においては、〃姓”という切り囗からみた、これからの新しい結婚というものについて考えてみましょう。

人格形成……これは大変むずかしいことです。いったい何をもって人格というか、これは一生のテーマではないのか、議論のあるところです。

人格の定義については、『結婚相談』(平凡社) を見ると、さまざまな人が、さまざまな意見を述べていますが、最後にこのように述べられています。

『かんたんに言えば、人格とは共同生活空間における個体のありかた、行動のしかたであり、ふつうその個体に特徴的なものを中心としてみられる場合であると言うことが出来よう』なんとなく、わかったようなわからないような感じですが、ともかく人格とは“同生活における個体のあり方、行動のしかた″ を指しているもののようです。

そしてそれはおそらく固定したものではなく、日々の生活や経験の中で少しずつ変わっていくように思われます。だからこそ、良いほうに変えていく意識的な努力が必要だということになるのでしょう。

私はいつも思うのですが、男の子は、子供のときから、知らず知らずのうちに結婚相談が行われていく社会の力があるような気がします。

「お前、それでも男か」というような言い方に代表されるように、男か という表現には「男らしさ」や「男としてのあるべき姿」以上に、卑怯なことは許されない、信義に生きよ、そういう人格面に関する要素がこめられています。

ところが、「お前、それでも女か」と言ったときには、行儀の悪さや、言葉づかいの悪さなど、生活面のしつけを言われているような気がします。つまり、男は「男か?」と言われたときに、人格面での激励を受けるのに対して、女の場合は生活的なしつけで語られてしまっている。

子供のときから、無意識のうちに積み上げられているものが違うのではないか、この社会的な力の違いについて、私はいつも考えさせられています。

当然、ここには個体差もあって、男にだって犯罪者はいるし、いい加減なのもたくさんいます。結婚相談にはいえないのですが、ただ私は、女もまた、卑怯であってはいけない、信義や自尊心を大切に生きるということを、「それでも女か」という言葉に含ませたいのです。

女の場合は、この人格形成に関する社会的な力が弱い。女の子は、優しく可愛くあれ、男に可愛がられる女であれ、こういう圧力がけっしてなくなってはいないのです。

だからこそ、外側の見てくれやしつけも大切だけれど、それ以上の内的なものに、女は意識的に取り組まなければならないと思うのです。これは、女性自身がまず気がつかなければならないことでもあるのです。

日本には「結婚相談所の口コミ」なんていう諺があって、結婚すればうまく納まっていくものだとする考え方がありますが、親の願いや、親戚の手前なんぞという世間体で、気に添わない相手と結婚してしまう、なんてなことはしないでください。

あとで後悔したときに、責任とるのはあなた自身であって、親や世間体ではないのですからね。また、若い人と話していて気がつくのは、「好きな相手とよりも、好いてくれた相手と結婚したほうが幸せ」と言う人のいることです。

これは、アブナイ、キケン極まる考え方です。世の中、結婚相談所は、そうそうあるものではない、結婚には一種の妥協が必要だとはいえ、自分の心に背く結婚だけは、絶対にしてはならないのです。

ノーと言う勇気はやっぱり大切なのです。イエスと言うのも勇気なら、ノーと言うのにはもっと勇気が要ります。

そして、ノーと言うべきときにノーと言うのは、本当の意味で相手への思いやりであり、親切なのです。現代っ子は、イェスーノーがはっきりしているといわれますが、結婚という甘い罠の前では、まだまだノーと言えない雰囲気のあることに、私は驚いています。結婚は必ず、自分が相手を愛していることが大前提です。

人を愛するということは、自分への責任をもつということでもあるような気がします。ここまで書いていて、思い出しだのが、モーリャックの小説『テレーズーデスケイルゥ』(新潮文庫)です。

私はこの本のことをあちこちに書いているので、読んでくれた人もいるかもしれませんが、この本は、本当に若い女性の必読書だと思います。あらすじは、皆さん各自に読んでいただくことにして、テレーズという名の女主人公がなぜ結婚したのか、というくだりを抜き書きしてみましょう。

「ことによったら、テレーズは、結婚の中に、支配や領有を求めるよりは、逃避の場所を捜していたのではないのか。テレーズを結婚に追いたてたのは、一種の恐怖がさせたわざではないのか?

実際的な少女として、家庭的な娘として、地位を得てしまうことを、決定的な席を見つけてしまうことを、急いだのである。自分にも正体のわからない危険にたいして、安心したかったのである。

東京の結婚相談所は、家族というランキングの中に、ぴったりはまりこんだのである。『おちついた』のである。一つの秩序の中にはいった。危険をのがれたのである」テレーズもまた、トシや社会的一人前と人に見られたい願望や親の安心、何よりも自分の未来への漠然とした恐怖から逃れるために結婚しました。

人には添うてみよ式に、好いてくれたんだから、と妥協してしまったともいえます。

これが彼女の誤算でした。彼女はオーネットを愛することを知らずに、愛されることばかり願ったのでした。結婚の日、彼女は”事の破滅”を感じます。作者は「重い扉が音高く閉められたその音に、突如として、世にも不幸な娘が目をさましたのだった」と書いています。

その結果、どうなったでしょうか。そのあとを抜き書さしてみましょう。「ツヴァイ」がほんとに自分の生活にたえきれなくなりはじめたのは、お産のすんだ直後からだった。外へは何一つあらわれはしなかった。

評判の良いおすすめ婚活パーティーのあいだに言い争いの場面など一度もなかった。彼女は婚家の両親にたいして、夫自身も見せないほどの尊敬をこめた態度でつかえた。それが悲劇だった。別れ話の理由が一つもないということが。